もの派をめぐって

 不規則な構造として進行中の私の作品が、もの派の作品と似ているという勘違いな指摘を防ぐためにも、ここで、もの派をめぐって簡単な素描をしておきたい。

 素材を不規則に配置させることで、その場の構造を明示化したいというのが、不規則な構造のコンセプトであることを、まずは提示しておきたい。もの派との差異のほとんどはここにあると言って過言ではないからだ。

 もの派とは大雑把に表現すれば構造の明示化ではなく、ものとものとの出会いによる詩的観想を具現化する営為なのだと言って良い。それを椹木野衣は『日本・現代・美術』の中で「もののあわれ」と表現したのではなかったか。

 もの派と称される作家たちの作品群はかなりの振幅があるのは確かだけれど、共通項としては、ものとものとの出会いによる詩的観想を具現化する営為であるというのが妥当だと思う。それは、もの派の中心人物である李禹煥が、その有名な著作『出会いを求めて』の中で、銀閣寺の向月台を例に持ち出していることからも明らかである。もの派が目指したのは、詩には見えない詩なのだと言って良い。作品のものものしさが髣髴とさせる詩的観想が、見るものにギャップをもたらし、もの派をもの派たらしめたのではなかったか。

 もの派は構造を明示化するのではなく、詩的観想を具現化し、構造を隠蔽したと言えば言いすぎだろうか。不規則な構造は、その不規則さゆえに、構造を明示化するのだ。それが新しいアートの新しい様態なのであると言えばこれも言いすぎだろうか。