アート、現代アートの真髄は、究極を目指すこと。
究極のアート、現代アートは、点を描くこと、「ART=・」。
点による究極の現代アート作品のコンセプトは、
「Art=・」、この一文=短文で、すべてを表現するものだ。
また、その究極の状態を表する言葉として、
「Almost Nothing」=ほとんど何もない、という英文が召喚されるかもしれない。
無に限りなく近い状態である、絵画の究極の様相そのもののことだ。
それは「ART=・」以外にも有効な様相かもしれない。
「Art=・」。
すべては、究極の現代アートとして、集約される。
ここにすべてがある。
そこで明示されるのは、現代アートという、絵画という、構造そのものかもしれない。
私が現代アートの究極を志向し、
結論として到達したのは、点だけがある作品だ。
(それは、現代美術を、現代アートを
究極化したものであるだけに、
どうしても、作品が先達の作品と似てしまうのは避けられないかもしれない。
しかし、それでも、)私は現代アートを究極化するという、
誰に求められたわけでもない、そんな孤独な制作を続行するしか方法がない。
なぜなら、それが、私が結論に到達した、
究極の現代アートにほかならないからだ。
点だけがある。
それこそが、何もないことの凄み、
限りなく表現しない表現の凄みである。
点だけがある。
「ART=・」
Ryuji Ozawa
date of bith 19600626
小沢 隆次
誕生年:1960年
Currently, it is active in the net.
Living is under construction at a part-time job in design.
Analogue works cost painting materials,
Digital work costs output cost.
Therefore, we are seeking support for expenses.
In order to participate in the art market,
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I am waiting for the support of those who can agree with my activities.
Galleries and stakeholders concerned, thank you for your support.
いつからだろう。
すべての存在が意味付けられていることに疑問を感じ始めたのは。
路傍に転がっている小さな石にさえ意味がある。
いや、路傍の石にさえ意味を読み取ろうとするのが人間であり、
すべての存在を意味付けるからこそ、
人間は、動物から人間になったのだと言って過言ではない。
無意味にもまた意味がある、そう考えるのが人間なのだ。
すべての存在を意味付けるしかないのが人間なのではなかったか。
しかし、それは、あまりにも息苦しい。
意味が溢れて、意味の洪水と化している。
そうであるからこそ、
限りなく意味しない意味、限りなく表現しない表現にあこがれる。
最小限の意味、最小限の表現。
限りなく意味しない意味、限りなく表現しない表現。
それを実現できるのは、現代アートだけだと確信している。
それを評価されるかどうかは今は不問とするけれど。
それがあまりにもマイナーな目論見だということは理解しているけれど。
しかし、それでも、ここから始めるしかないことだけは確実だ。
いつからだろう。
言葉を紡ぐことに時間を費やすことが煩わしくなったのは。
いつからだろう。
言葉を信用できなくなり始めたのは。
だから、ここでは、可能な限り言葉によらずに、ただ制作した作品を公開したい。
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芸術とは点を描くことである。
それだけだ。それしかない。
点による構造化された作品。
そこでは言葉は不要だ。
点、
それが表現しているのは
美術以外の何ものでもなく、
そこには
構造化された作品があるだけであり、
まさに、それこそが、
アートなのである。
※追記
宮川淳が「表面的であることを通じて表面化するもの、
それは表面そのものである。」と記したのにならって、
「構造化することを通じて構造化するもの、
それは構造そのものである。」と記しておきたい。
それは、ミニマルアートをさらに徹底化することにほかならない。
それは、ミニマルアートをさらに徹底化した、
構造化された作品にほかならない。
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